昭和51年に発足した石原区若連睦会の主旨や活動を紹介しています

石原区のまといや屋台について触れております

屋台のイラストに触れるだけで各部分の名称を画像を交え表示します

大山参りの紹介
石原区若連睦会
当町内の屋台と纏
屋台の各部分
大山参り

お祭り開催に御協力頂いた協賛の皆様の名前の入った提灯です

石原区の屋台をコンピューターグラフィックスで再現しました!
動きます♪
御近所の元気なお店企業を紹介しています散歩感覚でお楽しみ下さい
石原区の献灯
CGによる石原区の屋台
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石原はホントに石だらけぇ?

熊谷の西側に流れる荒川はかつては当時の他の川と同様大水の度に流れを大きく変えて地域に恵みと同時に災害をもたらしてきましたその中でも甚大な被害がでた寛保(二年)の大水は記録によると関東一円が浸水したそうで、浅草で水深7尺(約2.1m)、亀戸で12、13尺(約3.7m)、死者3,900余人、救助された者186,000人と伝えられています。まさに荒れ狂う川「荒川」そしてその洪水の度に洗礼を受け続けたのが石原でした、その頃の石原は河原の様な様相を呈していたと伝えられていますつまり名前の通り"石の原っぱ"たった訳です、そんな理由から石原と呼ばれるようになったともいわれています。

石原宿

中山道と巡礼道として栄えた秩父往還の分岐点があります、一般的には石原宿からの街道が秩父往還というのが正式なようです、江戸の観音信仰がブームとなり人が行き来しましたその後秩父で絹の生産が盛んになるにつれて巡礼の道から絹の道となりました、信仰の巡礼構や絹商人の行き来で石原宿も大いに盛ったそうです、今でもその場所には当時の道しるべが文化財として残っています、管理人の わたくしひょうたんも その道しるべから続く細い路地のような旧街道を自転車などに乗って通る時によく利用しました、もちろん現在も地元の大切な生活道路です、但し自動車は通れません!何せ道幅が1メートルくらいしかありませんから…ハイキングがてら歩いてみませんか。

秩父往還の主な宿 石原-広瀬-田中-黒田-荒川-永田-小前田-本宿-末野-野上-金崎-皆野-黒谷-大宮郷 ※この秩父往還についてはまた後日機会があったら詳しく取材してきます

石原村の独立運動!?

市町村合併の弊害ががさまざまな問題として浮上していますが、同じような事が我が石原でもかなり過去ですが実際起こった事があります、この事件は研究者の間では有名で現在の合併問題に一石を投じています、そこで今回その内容を簡単に説明します。   …慶応三年(1867年 )徳川慶喜は江戸城を明け渡し大政を奉還しました、朝廷は王政復古の大号令を発し長く続いた武家政治は終わりを告げ、五箇条の御誓文をひっさげ明治維新が始まり廃藩置県、版籍奉還により日本は大きく変わりました、、、とここまでは小学校の社会科でも習った事実ですが国が高圧的に事をグイグイ進めたかのような印象を受けますが実際は困難を極めた一大プロジェクトだった様です、事合併となると住民の抵抗は大きくそれまでの身分階級制度の影響もあってなのか他の地域に支配されるのではないかという危惧を持つ人が多かった様です現在でもその名残り多少はありますね、、。

 明治二十年(1888年)日本中様々な合併が進むなか、とうとう旧石原村も旧熊谷町と当村の一部を分割し合併して熊谷町とする案(資料を見ると最終的には命令に近い)が浮上しました、見逃せないのがこの合併案が出た時の"譲歩案"として用意された「石原村熊谷町双方に投票区を設け同数の議員数を用意する」(要するにお互い対等な関係だよ)という旧熊谷町から石原に対し出された提案です、しかし、そのような非公式な約束は法的に何の効力ももたず、結果として離脱も出来ないというまさに四面楚歌な状況に石原村は追い込まれてしまったのです、ですから 当時の石原村民は合併という形をとりながらも「村は搾取されたんだ」という意識を持ってしまったというのは容易に想像出来ます。

 そしてむかえた初の町長選、それは非常に緊迫した状況になりました、旧熊谷町推す根岸常次郎他氏と旧石原村が推す志村徳行氏との壮絶な一騎討ちの末、旧石原村の志村氏が勝利し村民にとって喜ばしい結果となりました、しかし一旦は就任したものの旧熊谷町のおさまりがつかなかったのか翌1894年1月には再び市長選が行われました(何故再選に至ったかは勉強不足の為わかりません、申し訳ありません)そして最終的には岡村新三朗と言う人物が新町長に就任しました、この人物は誰なのか?それは、他地域の人間で(北埼玉郡下忍村出身)当時連合戸長という職についていたいわば人望のある人でした、この人を間にたてればなんとか両者治まりが付くのではないかという当時の県の目論みだったようですが、その効果はだいたい期待通りだったようです。

町議員選もひと悶着あったようで元村民が選挙の延期を求め一揆に近いデモを行ったそうです、それはかなり息が荒かったらしく中々おさまりがつかない民衆を時の熊谷警察署長の説得の末現石原にある松岩寺まで引き込ませた時は既に丑三つ時だったそうです。話は前後しますが1889年には合併取り消しを求め最終的には東京控訴院裁判にまで発展しました、そして幾多の折石原側の敗訴となり同時に法制局にも訴えが却下されてしまいました。その際石原の悲願に同情したのか県会議員、同副議長も内務省に働きかけていたという記録さえ残っていますからその時の石原の期待感に対する敗北感は相当のモノだったのではないかと推測できます、しかし結果が出たとはいえ住民のほとぼりはもさめずにその後も執拗に復村工作は何度か続きましたがやがて近代化の波に飲まれるかのようにいつしかそんな気運も衰退していきました、その後さらに吸収をくり返し熊谷市はさらに大きくなりました、現在は過去の失敗を踏まえつつ隣町である妻沼町と大里町と新たに合併し平成17年新たな熊谷市が誕生しました。

  石原村の住民にとっては結局所望した物も得られず初志も叶いませんでしたが、住民自らが立ち上がり非暴力で運動したという点でいえば民主運動の魁だったと思います、ここはもっと評価されてもよいと思っております、先人達は敗北こそすれ「民主の意識」というかけがえの無い宝物を手に入れたと思います。

元々は石原の鎮守祭

120年が過ぎ現在はまったく前記したような気運も光景も過去の記録でしかありませんが、ただ今だにうちわ祭りになると旧石原村だった石原区、本石区では旧熊谷町の町内にある八坂神社ではなく元旦祭が行われる石原地区内の八坂神社に参拝をします、何故うちわ祭りで他町内とは別にこの地元の神社に参拝するのか不思議に思われる方もいらっしゃるかと思います、、前出の合併問題のひと悶着の為に「旧熊谷町の町内と仲が悪いのでは?」と勘を働かせる方もおられるかもしれませんが、理由はそうではありません、現在うちわ祭に参加している全12ケ町のうち本石と石原だけは元々旧石原村の鎮守祭(天王様)を旧石原村の祭りとして行っていたのです、熊谷が市制化されたのを機にうちわ祭に参加はしましたがこの時石原村の祭りが日にちを変えてうちわ祭に参加しているのだというスタンスをとった為に、この独自の風習が定着したというのが一番の理由です。

でも、もしかしたら「ここがかつて石原村で自分達は石原の住人なんだ」という先人の魂が風に漂う花の香りのようにそこここに息づいている為かもしれません。ちょっとオカルトめいていますがこれも理由のひとつだったりするのかも、、、。まあ これは冗談ですが。

7月21日のうちわ祭りの「まんまんなかの日」である巡行祭は、石原区本石区のこうした事情をご理解頂いてか全町の山車、屋台が石原地区に集まり華麗な叩き合いを繰り広げるようになりました、前出の事情を加味しながらうちわ祭りに来てそんな所を確認してみるのもまた違った祭りの楽しみ方ではないでしょうか、ちなみに旧石原村は過去に三台の屋台を所有しそれぞれ加美町菜加町志茂町と分けて祭りを行っていましたが屋台が大きかったり戦火で消失したりまたその他の理由に因り昭和11年に現在の石原区の屋台が新調されました、まあ新調されたと言っても平成十八年で創建70周年を迎えます、、なお2台の旧屋台はには群馬県の鬼石町(石原区は三杉町に本石区は本町)に売却され現在も夏祭りで現役使用されています。



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