熊谷の名所旧跡

記念すべき第一回目は上之の雷電神社を紹介したいと思います。この上之村神社は古くは久伊豆神社という呼称でしたが、明治時代に村名から上之村神社と改称しました。


歴史ある古い木造の鳥居

 正しくは両部鳥居とよばれるものらしいです。笠木と鳥居を前後に支える控柱の上に板屋根を設けた耐久性に富む優れた造りの鳥居です。平成7年には解体修理行われました。また、その際に柱のほぞから願主と大工の名前とともに寛文4年(1664)に建てられたことを示す墨書が発見されています。これは市内最古の木造鳥居という裏付けにもなりました。





江戸時代前期に建立されたと考えられる本殿は、一間社流造構造で、屋根は茅葺だった物を銅板葺に改変されています。軒周りの蛙股や手挟に特徴的な十二支の彫刻があります。建築当初からの姿を現在にまでとどめて桃山末期から江戸初期の建築様式を知る手がかりとなる市内伐っての重要な木造建築です。

昔は講と呼ばれる物が結成され、伊勢講とならび富士講と呼ばれる信仰が盛んに行われていました、この富士塚もその名残りです。この富士塚を造った上之村の講がどのよう種類の団体であったかは手許に資料がないのでわからないですが、大変信仰心のあつかった村民であることがこの美しい造型の富士塚からも伺えます。

 当時は今のように交通も発達していなかったので人々はおいそれと旅になんか出れません、それに旅に出ると言う事は死を意味しました。しかし人々は講を結成しこの富士塚のようなエイリアスを作り富士とみなし信仰を謀ったのです。また、代表者が参拝に出かけ御利益を賜りそれを村に帰ってから皆と分け合うというシステムも定着しました。

ちなみに講を辞書で調べてみると、1経典の講義をする会。法華八講など。また、仏教の信者が集まり、仏の徳を賛美する法会(ほうえ)。2社・仏閣への参詣や寄進などをする信者の団体。伊勢講・富士講の類。3貯蓄や金の融通のために組織した相互扶助の団体。無尽講・頼母子講(たのもしこう)の類。、、、とありますが、多分、実際はこれらの要素が複雑にからみ合っていたのが一般的な講だと考えるのが普通でしょう。あくまで予想ですが、、

雷電神社参道近くにはこのような土手が残っています、この土手や林神社境内の樹齢400年とも言われる松などをを含めて昭和59年熊谷市ふるさとの森に指定されました。

雷電神社の前に流れる風情のある川、まだ熊谷市内にもこんなに良い所が残っています

次回は常光院です

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