-起源-

8月14日第二次世界大戦終戦の前夜にその忌わしい出来事はおこった。

空から鉄の雨が降り注ぎ熊谷全土を炎に包み込んだ。

アメリカ軍B-29の容赦ない空襲は大人・子供・老人・猫・犬・家畜を

「差別なく」焼き殺しそして市街地の大半を焦土に変えた。

避難しようとこの川にやってきた人達はそこが砲火の中心地とは知らずに

逃げ場を失い謂れなきままに生命を奪われた。

米は「正義」などと宣うがなんの事はない、人が人を殺したのだ。

この不条理な死を悼んでこの星川で昭和25年8月からとうろう流しが始められ

そしていまも毎年8月16日にはこの場所で供養が行われている。

昭和50年に「戦災者慰霊之女神」(北村西望作)の像も設置された。


星川について

くねくねと曲がりくねった流れにそって家々がたちならび自然の面影を

残した川の形状は、昭和28年「戦災復興土地区画整備事業」の名の元に

4メートル幅のお堀型いわゆる単純な直線の川に生まれ変わった。

昭和30年代はこの川の上にゲタを渡した上に小屋をつくり

そこで露店が展開されだるま市の祭の時には「投げ市」として

新たな賑わいをみせていた。 さらに時が進むと今度は川の両端に

屋台が立ち並びさながら長浜のような賑わいをみせていたらしい。

しかしこれらの屋台もバラックも行政の指導で昭和44年までには

移転され今はその痕跡も見る事ができない。

現在の星川は水源の星渓園内のわき水が枯渇し星川は新たに水源を求め

荒川からの農業用水の導入に切り換わった。また、新たに成田用水から

サイフォンをへて星川に水を供給するための地下パイパス工事が

行われている。

現在の灯籠流し

くまがやのイベントの中でも少し重い赴きをもったとうろう流し。

読経と鉦の音が流れる中、献花や線香を手向ける多くの参列者が訪れる

星川摩耶幼稚園前の供養塔には昭和50年に戦災者慰霊之女神の像(北村西望作)が創設された。

星川ではこのような灯籠を川面に浮かべ易いよう設計されている上に、当日は灯籠流しの為の専用のスペースが設けられています。

げんざいでは熊谷空襲の戦没者だけでなく先祖の供養の為訪れる方もたくさんいます。


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